たくさんの「できるかもしれない」の山に囲まれて、私はずっと身動きが取れなかった。
何も行動しなければ可能性は無限大で、選択肢はいくらでもある。
選択肢の多さは私を圧倒して息苦しくさせ、逆に足をすくませる。
行動することは私にとって「諦めること」であり、「選択肢を狭めること」だった。
「何でもできる」が苦しかった
私が小学生の時はすでに日本の食料自給率は低く、地球温暖化は進行していて、両親の仲は悪かった。
問題だらけの世界だと思った。
私は当時、アニメや空想が好きで、想像の中で、私は何でも解決できるスーパーヒーローだった。
その想像は立ち止まってなんでも出来ない本当の自分とのギャップを色濃くした。
何もせず「できるかもしれない」ことを想像して、出来ない自分に落ち込んだ。
「課題」がくれた方向性
大学で農学部を選んだのは、消去法だった。
在学中、心に引っかかったのは実習でお世話になった集落だった。
高齢化・過疎化が進み「限界集落」に分類されるその集落で、大学生に実習の場を提供している人がいた。
日本の課題のお手本のような場所に私には見えた。
これを目の当たりにして、私はこのまま卒業していいのか?
見なかったことにして生活できるのか?
そう思った私は大学3年生の時に、その人にお願いして週に1, 2回手伝わせてもらうことにした。
その実習の中で、自分にはいくつもの問いが生まれた。
「どうすればこの土地で生計を立てられるだろう」
「どうやって限界集落は生まれたのか」
「なぜ私は何も出来ないんだろう」
これらの問いは無数にある可能性の連峰の中で、私に道を示してくれた気がした。
“この課題に向かって歩いてみよう”
「諦める」ための行動
まず、就農の道を考えた。
私は就活を進めながら、気になった農業系のベンチャー企業の畑に見学に行ったり、農家バイトや住み込みで酪農バイトをしてみたりした。
卒業後も週末農業を試したが、私の性分に合っていなかった。
生産がダメなら農作物に付加価値をつけられる人間になったらいいんじゃないか?
そんな考えで調理師を目指した。
これもダメだった。
本当に料理をすることが好きじゃないと、新しい発想は生まれないと実感した。
私はそんな無力感を感じる中で、社会についていかに自分の無知であるかを思い知った。
私はNHK高校講座で歴史(日本史・世界史)を学び直した。
簿記を勉強した。
歴史を学ぶ中で、私がこれまで目にした課題が「突然現れたもの」ではなく、歴史の中で生じたことを理解した。
そして、それ以上に多くの課題が歴史の中では生まれ、解決されてきたことを知った。
歴史の中で、これまでの人々がどれだけ熱心に当時の課題に向き合ってきたのかを知り、行動をする中で、今現在もそれぞれ立場で今の課題に向き合う人々に出会った。
何よりも無知と無関心が課題を大きく育ててしまったのだと感じた。
そして、簿記の勉強を面白いと思った。
行動をしていくと、見えてきたことは一人の努力ではどうにもならないということだ。
私は持っていた課題を「解決しようともがくことを諦める」ことを決めた。
課題の結末
- 「限界集落」の課題は根深く、一人で張り切っていても解決はできないと理解した
- 課題を認識し、試行錯誤している人間がたくさんいることを知った
- それぞれの立場で考えたことを継続して実行することで世界が少しずつ動くと感じるようになった
- 「好きな学び」が見つかった事で、私は私の専門性を持って社会に向き合っていきたいと感じるようになった
最後に
振り返って当時を眺めると、たくさん行動していたなと感じる。
これは「誰かのため」と思い込んでいたからこそできたことだと私は考えている。
率直に言ってしまえば、実際には部外者である私にあの集落の人が何かを期待していた訳はないと思っている。
ただ「あの場所に恩返しがしたい」、その思いが原動力となって、今まで私を突き動かしてくれていたなと強く感じている。
「夢」があった訳じゃない。
心に引っかかる課題があって、恩を返したい人がいた。
誰かのために何かしたいと足掻いた結果は、課題の解決には繋がらなかったが、おかげで私は登ってみたい山を見つけた。