心の「毛布」を手放すとき

ライナスの毛布

今考えると、高校以前の私には安全基地がなかった。
自分にも他者にも信頼を寄せることはなかった。
大学に入り、「課題」を見つけて浮かれた。
やりたいことができたから。
行動することは気持ちが良かった。
「課題」の伴った行動は、心に響く気がした。
それは多分、ライナスの毛布のように「課題」は私の心の安定剤になっていた。

近づくほど見えなくなる「課題」のゴール

不安や悩みは立ち止まった時に発生する。
行動しているときは、心は自由で心地良い。
だから立ち止まることが怖かった。
「課題」がある限り、私はそれに向かって行動できた。
ただ何かできるようになる度に、社会の解像度が上がる度に、私は自分の課題のゴールが見えなくなっていった。
どこを目指していたんだっけ?

ゴールのなかった「課題」

学びたいことができて、私は好きと「課題」を天秤にかけようとした。
もしくは、それらの共生の道を探ろうとした。
10年間大事に抱えてきた「毛布」はびっくりするほど薄っぺらい。
私はこの「課題」に何を求めていたのか?

手放した課題は形を変える

行動するために「課題」が必要だった私が居た。
でも、今同じ形でその「課題」を持ち続ける必要はない。

“「課題」は私に必要なものだった”
“「課題」は何か夢中になれた私に立ち返れる場所となった”

本だけではなく、景色や経験、出会いが学びになる、それを教えてくれた場所だった。
私はその場所の発展を願う以上に、そこで得た学びに感謝した。
学ぶことが楽しくて仕方なく、私はこの場所の「課題」を拝借して自分が学ぶ理由づけにした。
私の本当の目的は、「課題」の解決ではなく、「学び続けられる環境」だった。
いつまでも甘えているわけにはいかない。
私は外からもらった「毛布」を手放して、私の自身の課題を見つけに行かなけばならない。