これまでの行動量で言えば、少なくとも平均よりは上だと思う。
この“フットワークの軽さ”は私にとって有益でもあるが、自己嫌悪の大きな要因の一つだと思っていた。
何も続かないという自己嫌悪
慣れてしまえば、始めることは簡単だった。
「何か始めること」は楽しくて、興味のあるものには手当たり次第挑戦していった。
一方で、「続けることは」難しかった。
このアンバランスは成果につながらず、何も得られないまま時間とお金を失っていると思い、私は次第に自信をなくしていった。
好きなことをしているはずなのに、そのことが自分の首を絞めていた。
ゴールを曖昧にしていたツケ
興味が赴くまま始めていくと、あれもこれもとタスクが増えていく。
面白いと思ってやっていたことが“義務”になっていく。
そしてある時、ふと思う。
「これって続けて何の意味があるの?」
今考えると、当然だ。
ゴールを目指していながら、そのゴールが明確でなかったから。
表面的な刺激に夢中になって、それをどう活かすのかまでは思いつかなかった。
なんせゴールが決まっていないから。
この刺激を失いたくなくて、ゴールを明確にすることさえ無意識に避けていたかもしれない。
意味とは何か
- 原点思考:「自分がやっていることが、過去の自分とつながり、未来の自分を形づくる一部になっている」と思える状態。
- 達成欲:「やってよかった」「何かが進んだ」「結果が残った」と思えること。
- 親密性:「誰かと分かち合えること」に意味を見出す。
ChatGPTが言葉にしてくれたストファイの資質から見た“意味”の意味。
間違っていなかった。
あの時だって、言葉にはできなくても、こういうことを望んでいた。
ただ途方もない、蜃気楼のようなゴールを目指していたからこその自己嫌悪だった。
本当の自由の中で
執着していたゴールを手放して、自分という存在を改めて受け入れる。
今、ゴールは無くなった。
私は生きるためだけに働いている。
そしてそれは好きな学びにつながっている。
本当に驚くほど何も変わっていないのに、ゴールへの執着を捨てただけで自由になった。
もちろん、ここに至るまでの試行錯誤が無意味だったとは思わない。
あの時間の中で、自分の好きなことに気づき、自分自身と向き合う機会も得た。
だからこそ、ゴールへの執着を手放せる土台が、少しずつ築かれていたのだと思う。